ones-house 補足と感想と考察と雑記

Ones House についての、説明補足と、やっていての感想です

展示を振り返ってのエッセイ GAW展Ⅸ

移住してから初めて西脇以外で展示したGAW展は、
西脇で撮った写真を、
初めて西脇の人以外に見せる機会でもあったので、
反応と言うものがどうにも読めない部分が、
展示前、多々あった。
実際見てもらう中で、
東京在住時知り合っていた写真関係の人に、
予想よりお褒め頂いて、
一部の人には恐縮するくらい褒めて貰い、
何だかこそばゆいやら戸惑ってしまう位でだった。

松枯亭の展示もそうだけれど、
この夏参加・展示した作品は、
自分がこれからやる上でも大きな経験として得た部分があって、
ただそれに相反して、
自分として消化不良の部分もあった。
と言うのは、
忙しくなるからと、
作品の内容に関しては早々と準備してしまい、
ある種自分の手から離れて久しい作品を飾ったからで、
それはどうも自分には合わないらしい。

その考えに隋すれば、
今回に関して言えば自分の手から離れた作品に対し、
知り合いより意見を貰い、
知り合いの手によってその流動性をもたらされた作品を、
自分が改めてみると言う感じが強い。
それ位に、
知り合いから貰った意見が興味深い指摘だったと言うことも、
加えて置ければと。
 
複数人の意見を以下列挙させていただきます。

・東京に比べても、好きなものを楽しんで撮っていている。
・以前は影を中心に捉えていた部分が強かったのに対し、
今は光も見ている。
・艶が増した。
・ヌケ(見栄え)が良い。

特に二つ目の光を見ているという意見は、
自分の考えの中に全くなかったので、
何とも新鮮な感じがしました。
そう言った視点で捉えている部分がなかったので、
もしその通りであるならば完全に無意識なのでしょう。
あとは言っていただいた方にも伝えたのですが、
色を見るようになった中で、
輝度差における部分がニュートラルになったところがあるかもしれません。

あと今回頂いた意見の中で、
一番大きかったと思うのが、
実際の写真を見てもらえていなかった状況の中で、
自分の写真の傾向を進行形で捉えて頂いていたことでした。

通常写真展を開催し、
見てもらわない限り作品を撮っていても、
今何をやっているか、
写真を続けているかさえ曖昧になるのが常態です。
少なくとも自分が他の写真家に対しては、
そんな気がします。
その様な中で、
自分の、自分でも気付かない変化を、
西脇に来てもいない人に感じて貰えていると言うのは、
webでの公開なりDM・フライヤーを送っていた、
大きな成果だったのかなぁと。
まぁ、
まだまだ身内に限ってのこととはなるのですが、
見たい人にはその環境を提供できているのかなぁと、
西脇という土地であっても。

ただやはりそれを実感できたのは、
掛川と言う場所で会い写真を展示し見て貰い、
直接意見を聞けたからだと思います。

一応東京で展示をするのは、
2019年までやらないというのは変わらないのですが、
そう言った諸々のことを実感と共に考える機会を、
2019年を前に貰えたのは、
GAW展や日坂の方々のおかげで、
感謝しないといけないなぁと。

補うと言う意味では有効でも、
実際展示するということが、
webで代替しきれない、
そのことを強く実感した展示となりました。

展示を振り返ってのエッセイ 街の記憶

元々はbook sketch tripでの呟きを起点に、
3月で取り壊される家を撮影させていただいた方に、
手紙を書く中で思いついた考えで、
そう言ったきっかけにより、
自分がぼんやり思うことが言語化される、
ともすれば考えなり言葉もまた、
一人で作れるものではないのだろう、
と、
言うのはよくよく思った。

展示としては、
街の記憶としているのもあり、
状態的ではなく、
ある程度限定的(風物詩的なもの)を中心に選んだつもりで。
特にフライヤーに使った朝霧などは、
自分も西脇に住み始めて初めて経験したし、
人に伝えようにも言葉では余りに漠然としているから、
写真と言う形に直せたのは良かったのかなぁと。

実際西脇に住んでいる人に見せても、
ここ野村大橋?
と驚かれることも多いので、
その意味では貴重なのかなと。

西井さんの本の中で、
ホロコーストによって存在自体を、
歴史から葬り去ろうとされたことに、
頑として抵抗した写真行為、
と言うこととは比較にはならないだろうけれど、
それでも西脇にこれだけの霧が出る
(写真に写るくらいは)
と言うのを示す程度位には貴重なのかなと。

どんなに実力があろうが、
お金を積もうが、
その場にいない限りは撮れないものというものはあって、
そう言ったものに対する敬意というのは、
全てに等しく必要だなぁと。
メディアで取り上げる条件と言うものとは、
違うことは重々承知だけど、
見たい人、使いたい人が、
使える程度には保護されて欲しいものだと思った。

あとは、
一つ区切りとして、
写真を撮影した地元の人に見せる意義、
と言うのは自分の中で消化と言うか納得できる感じには、
考えを取りまとめれたと思うのだけれど、
これからF現して発表するつもりでいる、
西脇以外の写真を西脇の人に見せる意義というのが、
一つ課題と言うか、自分の中に消化し切れていない所でもあるので、
そこを真摯に考えていければと。
そんなことを思った。

展示を振り返ってのエッセイ book schech trip

元々のきっかけとしては、
ブック展というのを東京でいたときちょこちょこ見かけたけど、
なにやら全部観ると言う義務感に追われ、
結局しっかり見れないという印象があって、
どうせなら一同に見れたほうが見やすいのではということ、
が、
まずあった。

あとは西脇の人たちに西脇の写真を見てもらうに当たる参考として、
自分がふるさとの写真に対して、
どういう反応をするのかというのを知りたかったと言うのもある。

そしてその反応と言うものも、
西脇に移住して約一年半の現在と、
二年、三年と言った時とは異なり、
その時々に刹那的に思うのではないかと感じたので、
紙に書いて記録しようと。
また、
書いたものをその場で全部読むのも疲れるから、
気になったら帰った後も見れる方法として、
ツィッターを利用してみて、
方法としては悪くなかったんじゃないかなと思う。
まぁ、あくまで方法としてで、
面白いかどうかは別なのだけど。

とりあえずやってみた結果、
(あくまで自分の主観なのだけど)
自分で書きながら改めて気付いたことと言うのは多々あって、
写真が記憶更新の媒介として機能すると言ったことや、
逆に写真のイメージが先行して、
記憶から色が抜け落ちてしまっているということ。
(要はモノクロで撮っていたため、
その場所を思い出そうとしてもカラーのイメージでは、
思い出せなくなっている)
あとは新鮮だったのは、
文字だけを追って言った方が面白いなと。
写真とのすり合わせは気になったときにすれば良い感じで、
その逆写真も然り。
ある一定以上の連続的な流れを途切れさせない方がいいのかなと、
言葉も写真も。
ともするとどちらもそれぞれに寄りかからないほうが望ましいかと。

あとは無理やり言葉をひねり出しているので、
読んでいる人は疲れるかもなぁと。
そこら辺は好き勝手かいてるだけの自分の、
文章の身勝手さは反省すべきなのだろうけど、
直し方が分からないと言うお粗末さ。
今振り返ると、
荒木さんの恋する老人たちみたいのが出来たら良かったかなぁと。
自分には無理でした。
ごめんなさい。

展示を振り返ってのエッセイ 同じ線を引く

この時より、
ラミネートをマットタイプのものにして、
と言うのは屋外の展示なので、
どうしても平面性が保てず、
光沢のものであると光の反射が強くそれが分かりやすいこと、
あとはシャドー部が同様に反射が強いために見えずらいことが理由で、
不安としてあったのが黒がしまらない、
発色が悪くなると言ったことだったけれど、
それはそこまで気にならなかったような。
あとはつなぎ目部分が目立つかと思ったのも、
規則的に並んでいればそこまで気になりもせず、
まぁ良かったのかなと。
屋外と言う割りきりによる部分も強いけれど。

あとは今回フライヤーに長々とキャプションをつけたけど、
以降もそれに習おうかと。
実際屋外での展示で見きれない部分もあれば、
後々振り返り見たとき、
エッセイ的な記録としても残るし。
特にこのブログを見る人がいるのか?
と言った時、
分かりづらかろうし、
何より長くて読む気が失せる人も多いのかと思うので、
フォーマットとして適当なのかなと。

見てくれた人の反応は相変わらず良く分からないけれど、
自分では割と良く出来たなと思っていて、
あとはのこぎり屋根を撮れたのが良かったなぁと。
(撮れたと言うか、自分が発表するに納得する形に撮れたが正確)

まだまだの所もあるけれど、
まずまずと言った感じだったかなぁと。

後継4

具体的に今自分がやっていることを列挙すると、
・壁の張替え(年6回)
・自宅の展示替え(年3~4回)
・松枯亭での展示(今度初めてやりますが年1出来ればと)
・DM・フライヤーの作成及び郵送・配布/webの更新(2ヶ月に1回)
となります。
2番目の自宅の展示は自分の修練的な意味合いも強いので省いて、
他の部分は自分がずっと先、
自分が死んだ後でも続けて貰えたらなぁと思います。
で、
実際今の時点で何らかの事情で自分が急に出来なくなったとして、
引き継いでくれる人がいるかと言ったら、
いないかなぁと思います。
負担の割りにメリットが乏しい。
とは言いつつそれは、
自分以外の人はそう思うだろうと言うことで、
展示及び発表を出来るだけで自分には十分なメリットなのですが、
他の人にはそのことに価値を見出せはしないというか、
負担が多すぎる様に捉えられるのかなと。

具体的な数字を伴わせて言えば、
壁は拡大連写コピーを大阪でやったものをラミネートする形なので、
金額的にはそこまでではないですが10000円強。
ただ、下準備が恐ろしく面倒くさく、
一気にやろうとすると休日一日を丸々潰してしまうので、
自分は一週間かけ、仕事より返った後などに少しずつやっています。
コピーに1日、下準備に一週間、搬入でまた半日ほど。
それに屋外ですので雨風により剥がれる場合もあるので、
ほぼ毎日仕事の行き帰りにみては、
剥がれていたら補修をしています。
(最近は剥がれにくくなってきたかなぁと思いますが)

DM・フライヤーは大阪に安い所があるのでそこを利用し、
3000円前後で300枚位今のところ作って、
それを知り合い60人位に郵送と、
地元で置かして貰っている店舗に時間のあるときに渡しに行ってます。
ただ大阪に頼んでいる印刷所が
平日と第1・3・5の土曜が営業日なので、
タイミングを合わせるのがやや面倒なのと、
そう言った事情もあり早め早めにデータを作成する必要があります。

webの更新においては、
自分の場合フィルムを用い撮影しているので、
プリントをスキャンしデータ化し、
それを適度なサイズにリサイズし、
並びを改めて考えながらアップロードしていきます。

年一回の松枯亭での展示は、
壁、額、マットを揃え、
やり方さえ決まってしまえば、
次回以降は大分事務的な負担は少ないのかと。
ただ会場が広いので、
作品点数を最低でも40カットは揃えなくてはならないので、
それが大変なのかなと思います。

そしてこうした負担をともなっても、
作品が売れたり、人が多く来たり、
メディアに取り上げられたりすることは、
現時点ではありません。
また、費用も基本自分の持ち出しで、
その持ち出しの費用を捻出するために、
他の仕事を週5でやっています。
ついでに一人暮らしなので、
家事も全て自分ひとりでやります。

これだけ頑張っているからもっと褒めてということでは、
勿論ありません。
むしろ誰かに引き継いで貰うとしたら、
この負担を全て丸投げしてしまうことになるので、
それは良くないだろうと言う自戒からなるものです。
勿論途中途中では自分も手伝いはするのですが、
最終的に自分のいなくなった後にも続いて欲しい訳で、
負担を軽減するために人の協力も得るべきでしょうし、
また、協力して貰うにあたり、
その流れ、連携や簡単な決まりごと等も必要になってくると思います。
実際”何かあったら協力するよ”と言っていただける方も、
ありがたいことにいるのですが、
自分が結局土日しか実質的に動けないことと、
具体的にして欲しいことを示せないために、
ほぼ一人で上記の活動をしているのが現状です。
(コンパネを運んでいただいたり、今度やるDM・フライヤーを、
地元の方に配布していただいたり、勿論協力して貰っている部分もありますが、互いに仕事がることより、そもそも自分が頼むのに躊躇する部分があるところもあり、むしろ地元の知り合いより提案されやって貰ったところも多々あります)
実際協力して貰うようになったとしても、
何かあったとき自分と連絡がつかない
(基本仕事中は電話に出れないのと、
特に冬場は夜中の10時近くまで残業とかもざらなので、
基本土日以外まず連絡はつきません)
本来でしたら問い合わせにはいつでも対応出来るようにしないといけないでしょうし、(協力していただける方に待ちぼうけを食らわしてしまうので)
その為の方法もまだまだな状態です。

まぁ、そのような形で、
まだまだ問題は山済みなのですが、
自分がいなくなる時、
出来る限り負担を軽減し、
かつメリットを高めた状態で誰かに引き継げる様に出来たらと。
恐らく容易には問題は解消はされないでしょうし、
やり方も慎重に吟味するべきかと。

自分のやっていること、
カメラマンとも違う、
写真家というものが街にいるということ、
その豊かさと言うものを、
広く認知して貰えたらと、
その為には時間も労力も膨大な量を必要とし、
やはり自分の持ちえる時間では足りないと思うのです。

 

ps

今回はえらく更新が遅くなりました。

どれ位読んでいる方がいるのかも良く分からない状態ですが、

申し訳ありませんでした。

後継3

書きながら自分の頭も整理しているので、
読んでいる方には煩わしい事と思いますが、
引き継いでもらいたいのは、
西脇の写真を撮ること、及びそれを発表する、
そしてその形式は個展で、
そう言った中、楽しんで自由に見てもらえればと、
観る人に促していく、
と言った所でしょうか。
まぁ、
自分自身がそれを出来ているのかは、
まだまだ疑問の部分が多いですが。

あと、知り合いとやり取りする中で、
何故人が多く集まる都市部ではなく西脇で、
要は地産地消の形を写真において用いるのかも、
ふと考えたので、そのことについて。

写真の役割として伝達と記録というものがあると思うのですが、
曖昧となっている(または無意識下の)記憶を呼び覚ます、
と言う面をこの頃感じます。

きっかけとしては、
よく行くコーヒー屋さんと話す中で、
部屋の整理等をしていた時に、
昔の写真が出てくると、
写真の場合、見始めると止まらなくなると言っていました。
ふとそれは何故かを考えた時、
写真を見ている時、写っている物はもとより、
それに関連づいた部分も思い出させるなぁと。
”この時は暑かった”
”こんなエピソードがあった”
”この時写っていた人はその後どうなった”
なぞ、
写真の上に具体的に写っているからこそ、
その関連した部分の記憶と言うものも、
呼び覚ましやすいのかなぁと。
つまりは、
写真と言う媒体をきっかけに忘れていた記憶が思い出され、
言わば、思い出としてその記憶は再構築される、
記憶の更新が成されていくのではないかと考えた訳です。

写真に写った状況を知っている人同士が、
個人的に写真を観る場合はそこまでに留まるのですが、
これが公に向けて発表がなされるとき、
それは住む人々と共有した思い出として、
記憶を更新していくことに繋がるのかと。
実際自分の撮影した写真をコーヒー屋さんに見せる中で、
自分の知らないことも教えてもらったりもしてましたし、
見る人それぞれに思い出すものと言うのは異なるのでしょう。
ある種そう言ったものが総体として、
街の記憶を形成していくのではないかと。

実際段々と人は忘れていってしまうものですから、
大きな事件、地震や水害、
あとは戦争など終戦の日等に要所要所でマスコミでも特集されています。

ただ、淡々と過ぎて行く中、
特に事件としてある訳でもない日常及び街の風景は、
緩やかにいつの間にか忘れていくのではないかと。
漠然と思い出そうにも、漠然としているが故、
思い出すのも中々難しいのかと思いますし、
思い出されないことには次第に記憶からも風化していくのだと思います。
そう言った中これまでの街の風景を思い起こさせる、
その更新媒体なりきっかけとして、
写真の発表が機能していけたら良いなと。
その為にはその街を撮り、
その街で発表していくのが望ましいのではないかなと思う訳です。

また、
どの街にもそう言った機能(行為・発表)が継続されていくことが、
理想としてある訳ですね。過去に縛られる必要は無いのですが、
やはり継承していって貰いたいと言う面もありますし。

写真を撮る上において、
桜や何らかの行事・風物詩といったものはそれはそれで大切だし、
それも継続していく中で、
その脇にこぼれるものを、
どう留めて行くかと言うことなのかもしれません。
桜が咲き夏が来て稲穂が実り冬を迎えまた春が来る。
その間々にも絶え間なく街の情景と言うものは存在しているのですから。
写真で全てを記録するということではなく、
(土台それには無理があると思うので)
写真を通し住む人の中で街の記憶と言うものを留めていく。
その為に、
やはり撮るのとあわせてその土地で発表することが必要なのかと思います



後継4に続く

後継2

さて、
一生かけてもまだ足りなく、
そして何かを引き継いで貰う、
その何か、を、まずははっきりさせることが、
定石なのかとは思うのですが、
それを自分でも明確にしきれていない、
いないが故に益々時間を要すると、
本末転倒な話なのですが、
いまだにボヤボヤンと不明確な中で、
一つはっきりしていることとしては、
誰もが皆、自分の眼で判断する、
要は周りの意見は関係なく、
自分で良いと思えたら良いと、
そう言った習慣を根付かせることは、
あるのかなぁと思います。

どうしても写真なり表現に随するものは、
批評なりメディアを入り口として馴染んでいく部分があって、
(まぁそれはそれで一つの道筋なのかとは思うのですが)
それは鑑賞する側が、
自分は写真に詳しくないからと遠慮する、
不必要な負い目から派生する、
知る人なり制作者側への過度の気遣いの様にも思われるのですが、
その程度が過度故、
好きに楽しむことを停滞させている原因の様にも思います。
経験が無いから自分には理解できないと、
どう観て良いか分からないと距離を置くといいますか。

批評家なりの意見はあくまで一意見に過ぎず、
(実際批評家等と自分の意見も異なることも多々ありますし)
要は楽しめさえすれば、
それは気にするに値しないことだと思います。
理解できなくても、
楽しめるのであればそれで良いと思いますし、
楽しんだ上で他の人の意見も聞きたいと言った時に、
批評家なりやっている人の意見などを聞くなり読めば良いのかと思います。
逆を言えば、
幾ら表現の重要性をメディア等で訴えたとしても、
鑑賞者側が楽しめなければ長続きはしないかと。
要は楽しめないまま、
結局は重要性も分からぬまま、
難しい、分からないと距離を置かれ、
一般には浸透せず、
一部の人達だけでまわしているというのが、
作品として扱われる写真の現状なのかと思います。
まずは馴染んでもらうことが大切かと。
(しかしながら、現状としては早く結果を出すことを求められてか、
変に媚びエンタメエンタメし過ぎて、
元々の良さを見失っているきらいが現在のメディアにはある様にも思います)

馴染みの無い人が不足しているのは、
恐らくは写真の知識ではなく、
楽しむための自らの尺度であり、
元より本来有しているはずの自らの尺度に対しての、
自信なのだと思います。
良い悪いではなく、
好きか嫌いかで良い訳です。
無理をしてまで批評家なり世間一般、
やっている人の価値観に合わせる必要は、
全く持ってないのかと思います。

他のジャンル、
小説や映画、特に音楽は、
勿論批評なりも存在はするものの、
あくまで個人の好みが主だった所で、
メディアを排しても尚成立している部分がある印象があります。
知るきっかけとして多々メディアが担う部分はあるにしろ、
それぞれの好き嫌いによって楽しまれているのかと。
要はそれだけ生活に根付いているのかと。
他の誰に酷評されても、
新しかろうが古かろうが自分の好きなものを聞いている様な。
それは”音楽好き”に限らず、
特に熱心でないにしてももれることなく、
お気に入りの音楽と言うものはそれぞれにある気がします。
写真もその状態にもって行きたいの言うのが一つあって、
ともすればメディアを排した中でも成立することを、
ということを大きな目標として目指しているのかもしれません。

写真が全てメディアに依存しているとか、
好きに楽しんでいる状況が全くないとはいいませんが、
写真にもありはするにしても、
少し興味を持ちかけた人が、
それを行動として具現する方法が乏しい。
プリントはもとより写真集も他の書物に比べ高価で、
且つ、
売られている場所も限られている。
そもそも、日本の写真市場と言うものが、
自ら撮ると言うことを薦めるのが中心で、
他人の作品を見て楽しむと言う部分を、
欠いていると言うのがあるのかもしれません。
また、入り口自体の狭さもあるのかと。
写真作品を観るともなく観る、
音楽で言う所の、
ラジオからたまたま流れてきて耳に残ったと言うことも難しいし、
見ようとしなければ見る機会もない。
また、メディアで取り上げられる時点で、
写真の場合はそこそこ作品自体に付随した評価と言うものが伴い、
そのことが自由に気軽に見ることを邪魔をしているような気が、
自分はしてしまうのです。
評価されているから良い写真なのではなく、
良い写真ゆえに評価も伴う、
と言う、
何やらたまごが先かひよこが先かではないですが。
そう言った他のジャンルと同じ様に自然な感覚を、
まずは当たり前の様にするべきで、
(ただ評価というものは、特にメディアにおいては、
何とも複雑に様々な要素、しがらみがからみあって、
成立しているのだと思います)
とりあえず観る機会は増やさなくてはいけないと思っていて、
それには、地元で発表する人を増やさなければならないし、
途切れない様しなくてはならない、
と、
言うのが、
ボヤンボヤンとしてますが、
自分のやりたいことなのだと思います。
まとまりなく分かりづらくて申し訳ないですが。

また、その手の話をすると、
”ワークショップをやったら?”と言う意見が出てきますが、
それも勿論一つの方法だとは思うのですが、
根本的な解決にはならないと思います。
あくまで”写真好き”の人の興味を発展させる受け皿にはなりますが、
一般には浸透しない気がしますし、
そこで興味を持った人がその土地にその興味を向ける、
写真を鑑賞の意味で楽しむ習慣には至らない気がします。
元よりワークショップと言うもの自体が、
写真を撮影する、制作する方向に向けられてのことで、
成立もあくまで制作側までの話に留まってしまう気がします。
自分は撮らずに純粋に観て楽しむ人には、
その土地土地で楽しもうにも、
見る機会が余りに少ない気がします。


実際、西脇に写真展がないかと言ったらそんなことはありません。
写真愛好会、同好会なるものは複数ありますし、
そう言った意味では機会はちゃんとある訳で。
ただ、
都市部と、
ここでは西脇とで何が違うかと言えば、
個展をベースに活動する人の数だと思います。
また、
個展がベースにならないが故に、
その機会も数が限られたものとなる気がします。

おそらく西脇に限らずどんな地方にも、
写真愛好会なり写真をやる人はいるのかと思います。
しかしながら個展をやる人は、
比較論とはなりますが、
都市部よりかは圧倒的に少ない。
と言うのは個展に適したスペースも少ない、
(要は市民会館等は個展をやるには広すぎる)
少ないが故に個展をやらない、
やらないが故にそう言ったスペースが成立しづらいと言う、
悪循環がうまれているのだと思います。

個展がグループ展より優れていると言う気はありませんが、
個展故に派生する写真の捉え方があり、
そこら辺が恐らく自分が一番多くの人に馴染んで欲しい部分なのかと思います。

具体的には、
連続的に複数枚の写真を見せるが故に、
何気ない素朴な写真を入れやすいことがあるのかと思います。

恐らく写真作品に馴染みのない人は、
写真を単体のものとして捉えるが故に、
一枚の写真の中にインパクトを求めすぎる様に思います。
優れた写真は派手で見栄えがして、
その陰で素朴な写真はこぼれ落ちる訳です。
何気ない街中の写真は、
作品としては地味に捉えられてしまい、
行き場を失い、
記録に昇華される前に箪笥の肥しになるのかと。
そして、
その部分の記録が街から抜け落ちしてまう気がします。

作品を発表する中で人の目に触れ、
その良さを理解され、
果てはその土地土地の記録として、
写真が残っていく流れが、
ある種自分の理想な訳です。
そう言った時、
時間がかかっても上からこうだと説明するのではなく、
鑑賞者が自発的にそのよさに気付くと言う、
そのことが必要に思うのです。

後継3に続く