後継2
さて、
一生かけてもまだ足りなく、
そして何かを引き継いで貰う、
その何か、を、まずははっきりさせることが、
定石なのかとは思うのですが、
それを自分でも明確にしきれていない、
いないが故に益々時間を要すると、
本末転倒な話なのですが、
いまだにボヤボヤンと不明確な中で、
一つはっきりしていることとしては、
誰もが皆、自分の眼で判断する、
要は周りの意見は関係なく、
自分で良いと思えたら良いと、
そう言った習慣を根付かせることは、
あるのかなぁと思います。
どうしても写真なり表現に随するものは、
批評なりメディアを入り口として馴染んでいく部分があって、
(まぁそれはそれで一つの道筋なのかとは思うのですが)
それは鑑賞する側が、
自分は写真に詳しくないからと遠慮する、
不必要な負い目から派生する、
知る人なり制作者側への過度の気遣いの様にも思われるのですが、
その程度が過度故、
好きに楽しむことを停滞させている原因の様にも思います。
経験が無いから自分には理解できないと、
どう観て良いか分からないと距離を置くといいますか。
批評家なりの意見はあくまで一意見に過ぎず、
(実際批評家等と自分の意見も異なることも多々ありますし)
要は楽しめさえすれば、
それは気にするに値しないことだと思います。
理解できなくても、
楽しめるのであればそれで良いと思いますし、
楽しんだ上で他の人の意見も聞きたいと言った時に、
批評家なりやっている人の意見などを聞くなり読めば良いのかと思います。
逆を言えば、
幾ら表現の重要性をメディア等で訴えたとしても、
鑑賞者側が楽しめなければ長続きはしないかと。
要は楽しめないまま、
結局は重要性も分からぬまま、
難しい、分からないと距離を置かれ、
一般には浸透せず、
一部の人達だけでまわしているというのが、
作品として扱われる写真の現状なのかと思います。
まずは馴染んでもらうことが大切かと。
(しかしながら、現状としては早く結果を出すことを求められてか、
変に媚びエンタメエンタメし過ぎて、
元々の良さを見失っているきらいが現在のメディアにはある様にも思います)
馴染みの無い人が不足しているのは、
恐らくは写真の知識ではなく、
楽しむための自らの尺度であり、
元より本来有しているはずの自らの尺度に対しての、
自信なのだと思います。
良い悪いではなく、
好きか嫌いかで良い訳です。
無理をしてまで批評家なり世間一般、
やっている人の価値観に合わせる必要は、
全く持ってないのかと思います。
他のジャンル、
小説や映画、特に音楽は、
勿論批評なりも存在はするものの、
あくまで個人の好みが主だった所で、
メディアを排しても尚成立している部分がある印象があります。
知るきっかけとして多々メディアが担う部分はあるにしろ、
それぞれの好き嫌いによって楽しまれているのかと。
要はそれだけ生活に根付いているのかと。
他の誰に酷評されても、
新しかろうが古かろうが自分の好きなものを聞いている様な。
それは”音楽好き”に限らず、
特に熱心でないにしてももれることなく、
お気に入りの音楽と言うものはそれぞれにある気がします。
写真もその状態にもって行きたいの言うのが一つあって、
ともすればメディアを排した中でも成立することを、
ということを大きな目標として目指しているのかもしれません。
写真が全てメディアに依存しているとか、
好きに楽しんでいる状況が全くないとはいいませんが、
写真にもありはするにしても、
少し興味を持ちかけた人が、
それを行動として具現する方法が乏しい。
プリントはもとより写真集も他の書物に比べ高価で、
且つ、
売られている場所も限られている。
そもそも、日本の写真市場と言うものが、
自ら撮ると言うことを薦めるのが中心で、
他人の作品を見て楽しむと言う部分を、
欠いていると言うのがあるのかもしれません。
また、入り口自体の狭さもあるのかと。
写真作品を観るともなく観る、
音楽で言う所の、
ラジオからたまたま流れてきて耳に残ったと言うことも難しいし、
見ようとしなければ見る機会もない。
また、メディアで取り上げられる時点で、
写真の場合はそこそこ作品自体に付随した評価と言うものが伴い、
そのことが自由に気軽に見ることを邪魔をしているような気が、
自分はしてしまうのです。
評価されているから良い写真なのではなく、
良い写真ゆえに評価も伴う、
と言う、
何やらたまごが先かひよこが先かではないですが。
そう言った他のジャンルと同じ様に自然な感覚を、
まずは当たり前の様にするべきで、
(ただ評価というものは、特にメディアにおいては、
何とも複雑に様々な要素、しがらみがからみあって、
成立しているのだと思います)
とりあえず観る機会は増やさなくてはいけないと思っていて、
それには、地元で発表する人を増やさなければならないし、
途切れない様しなくてはならない、
と、
言うのが、
ボヤンボヤンとしてますが、
自分のやりたいことなのだと思います。
まとまりなく分かりづらくて申し訳ないですが。
また、その手の話をすると、
”ワークショップをやったら?”と言う意見が出てきますが、
それも勿論一つの方法だとは思うのですが、
根本的な解決にはならないと思います。
あくまで”写真好き”の人の興味を発展させる受け皿にはなりますが、
一般には浸透しない気がしますし、
そこで興味を持った人がその土地にその興味を向ける、
写真を鑑賞の意味で楽しむ習慣には至らない気がします。
元よりワークショップと言うもの自体が、
写真を撮影する、制作する方向に向けられてのことで、
成立もあくまで制作側までの話に留まってしまう気がします。
自分は撮らずに純粋に観て楽しむ人には、
その土地土地で楽しもうにも、
見る機会が余りに少ない気がします。
実際、西脇に写真展がないかと言ったらそんなことはありません。
写真愛好会、同好会なるものは複数ありますし、
そう言った意味では機会はちゃんとある訳で。
ただ、
都市部と、
ここでは西脇とで何が違うかと言えば、
個展をベースに活動する人の数だと思います。
また、
個展がベースにならないが故に、
その機会も数が限られたものとなる気がします。
おそらく西脇に限らずどんな地方にも、
写真愛好会なり写真をやる人はいるのかと思います。
しかしながら個展をやる人は、
比較論とはなりますが、
都市部よりかは圧倒的に少ない。
と言うのは個展に適したスペースも少ない、
(要は市民会館等は個展をやるには広すぎる)
少ないが故に個展をやらない、
やらないが故にそう言ったスペースが成立しづらいと言う、
悪循環がうまれているのだと思います。
個展がグループ展より優れていると言う気はありませんが、
個展故に派生する写真の捉え方があり、
そこら辺が恐らく自分が一番多くの人に馴染んで欲しい部分なのかと思います。
具体的には、
連続的に複数枚の写真を見せるが故に、
何気ない素朴な写真を入れやすいことがあるのかと思います。
恐らく写真作品に馴染みのない人は、
写真を単体のものとして捉えるが故に、
一枚の写真の中にインパクトを求めすぎる様に思います。
優れた写真は派手で見栄えがして、
その陰で素朴な写真はこぼれ落ちる訳です。
何気ない街中の写真は、
作品としては地味に捉えられてしまい、
行き場を失い、
記録に昇華される前に箪笥の肥しになるのかと。
そして、
その部分の記録が街から抜け落ちしてまう気がします。
作品を発表する中で人の目に触れ、
その良さを理解され、
果てはその土地土地の記録として、
写真が残っていく流れが、
ある種自分の理想な訳です。
そう言った時、
時間がかかっても上からこうだと説明するのではなく、
鑑賞者が自発的にそのよさに気付くと言う、
そのことが必要に思うのです。
後継3に続く