展示を振り返ってのエッセイ(タビサキニニテヒナルデサキ)
昨年の夏に続いてのデジカメで撮影した作品で、
前回と大きく異なるのは、
撮影範囲が極端に広いこと、
あとはほぼ全ての画像のコントラスト等、
調整を行っている所だったりします。
基本的にはまず紙に焼く(プリントする)、
物質化することのメリットを強く感じてはいるのですが、
デジカメ自体安価な簡易的なもので、
紙媒体にプリントするとその粗が目立ち、
自分でもさすがに気になってしまうので、
そう言った粗が許容の範囲におさまる故、
”webのみ"での発表としています。
撮影する内容もさることながら、
普段フィルムを使っている中で展示記録にしか使っていない
”デジカメ”というものと、
どう向き合ったものかなぁと言う実験の意味でも、
自由研究の範疇な訳です。
画像の調整をするようにしたのは、
考えてみればフィルムにおいても、
特にモノクロでは暗室作業の中で、
コントラストは当然調整しますし、
場合によっては焼きこみもしている訳で、
撮影時のデータそのままでやることにこだわる必要性がないと、
思ったというか気付いたからでして。
正直撮影データそのままですと、
画像はのっぺりとしますし、
元よりファインダーが良くないのかもしれませんが、
撮影時にはつぶれていたはずの部分が、
PCのデスクトップ上ではしっかり出てしまうこともざらで、
基準となる部分が元々何だか分からない、
それだったら最後に確認するPC上を基準としても、
差し支えないとの判断より、
今回はそうしました。
また、
今回はどう言う訳だか、
追加撮影の機会にひどく恵まれ、
一旦並べまで完成した所より、
4~5回は新しく撮影したものを加え、
並べ替えると言ったことをしています。
自分は元々撮影と同時にプリントと並べを平行で進め、
撮影をここまでと決めたら、
程なくプリント、並べも撮影した分を加えたら完成で、
それ以降は手を加えなかったので、
(要は納得しないからと追加撮影をすると言うことはまずしないです)
一旦完成したと思ったところより、
さらに変わっていくのは、
面白くもあり、何やら戸惑った部分も強かったです。
そう言った形で変わっていく中の、
途中段階の内2回ほどを、
知り合いに手紙に添えてデータ(USB)を送ったのですが、
最終と途中とはどう変わったか、
どっちが良かったのか、
機会があったら聞いてみたいところです。
あとはタイトルやキャプションにもありますが、
”旅”と言う感覚が現状自分にはなじめない、
それは撮影に関してもそうですし、
単に身の置き方としてもそうで、
京都に行った折、
京都で待ち合わせた知り合いに、
”どこか行きたい所ある?”と聞かれ、
何も考えていなかったので結局相手の思いつく限りの場所を、
あれこれ案内してもらい、
何だか余計に手間をかけさせてしまい申し訳なかったなぁと。
よく”何食べたい”と言った質問に対し、
”何でも良い”と言う答えが一番困るといいますが、
旅に関して自分はそれに似た困った答えしか出来ないのかなぁと。
正直どこへいってもそれぞれ面白く思うので、
選ぶこと自体が必要ないというか選択自体を放棄していると言うか。
出不精と言う訳ではないのですが、
どこかまだ言ったことのない場所への興味よりも、
元々知る場所が、
その時々にどう違って見えるかと言う興味の方が強い様で、
あとはどこか今の場所から離れたとしても、
都会的であればどこか故郷に近く見え、
田舎であれば今住む場所に似て見え、
もしかしたら非日常感と言うものが、
薄れていることもあるのかもしれません。
(西脇はそこまで田舎ではないですが)
帰省なり用事があって遠出するとこが常態化しつつあり、
全ての土地が日常に組み込まれていってるとも言えるのかと。
ですから改めて見直してみても、
どの写真もそこら近所と変わらない、
身近な風景にしか見えませんし、
行った時のことを感慨深く懐かしく思うこともない訳です。
近所にある、
最近通ってないな、
と、ふと思う道と変わらないなと言うか。
だから機会があればまた訪れもするだろうと、
行ったら行ったで撮影したくなる衝動が高まる気もしなく、
ただひたすらにその時々に身を任せている感じで。
ですから用事が特になければ、
無理に遠出する気も起きないですし、
ひたすら近所を撮るだけで満足してしまいます。
そんな自分の気質を改めて確認したような気がしました。