ones-house 補足と感想と考察と雑記

Ones House についての、説明補足と、やっていての感想です

展示を振り返ってのエッセイ(撮影者不詳1962-1972)


自分が写真制作をしている上で、
強く影響を受けた写真と言うのは、
主だった所で3つあって、、
一つは牛腸茂雄氏のself and others。
一つは長野重一氏の遠い視線の、
歩道橋の上より撮影された事故の写真。
そしてもう一つが、誰が撮影したかも分からない、
今回の写真郡となります。
(他にも好きな写真作品は沢山あるのですが、
制作に影響を受けたと言う意味ではこの3つかと)

牛腸氏はdeja-vuの特集からか、
死後改めて再評価されていることもあり、
メディアにおいても人気の高い作家なのかなと言う印象です。
長野氏はコニカミノルタ他、様々なコンペの審査員、
日本写真家の蔵書の編算にも関わっていたりと、
様々な所で日本の写真を牽引してきた実績もあり、
また、自分の周りの作家からの評価も非常に高いです。
何年か前にはタカイシイギャラリーが、
もっと海外でも評価されるべき作家だと言うことなのか、
ヴィンテージプリントを大量に購入したこともあった様に記憶しています。

それに対し今回の写真は、
メディア的な評価は全くないですし、
もとより自分においても、
知り合いの古本屋さんにプリントを依頼されなければ、
見る機会もなかったでしょう。
何を目的に撮影されたかも分からず、
誰が撮影したかも不明、
写っている被写体も他に比べ特段希少性の高い訳でもない、
(特に撮影当時はよくよく見る光景だったのではないかと思いますし)
言わば評価の後ろ盾が全くない写真な訳です。

それにも拘らず自分を魅了したことは、
写真がそれ単体として自立している、
作者の手を離れて尚、
人を魅了する強度を持っていたということなのかと思いました。

前述の2つの作品に関しても、
上記の様な情報を前もって知っていた訳ではなく惹かれたのですから、
同様に後ろ盾を必要とはしていないのでしょうが、
むしろそう言った後ろ盾のなさ、
写真として見逃されて消え去ってしまいそうな中、
古本屋さんの依頼をきっかけに巡り合った稀有さに、
感銘を受けたのかもしれません。
また、
これだけの写真が、
機会がなければこのまま誰の目にも触れることなく、
消え去っていただろうことより、
秀でているにも拘らず埋もれ、
消え去ってしまう写真と言うものが、
数多あるだろうといえるかも知れない、
環境の不遇も感じます。

増山しず子氏が、
村がなくなってしまうからと、
撮られた写真の様な取り上げられ方もあります。
最近では311の地震によりその稀少さから、
東北の地震前の写真の展示も多々見受けられます。
それらに比べても、
今回の写真は有象無象の一つ、
その稀少さに気付きにくい、
と言うのはあくまで比較の中でしか、
その尊さを認識してないからなのでしょう。
時代の経過により気付く場合も往々にしてあるのでしょうが、
その時間の中で大概は稀少さに気付く前に埋もれ消えてしまうのです。

もう撮影が叶わなくなった時、
結果的に撮っていたと言うのは、
一見すると偶然のようでいて、
あくまで撮影を継続的にしていたと言う、
撮影者による努力があってこそだと思います。
それが貴重な気がするのです。

貴重な稀少なものを撮るのではなく、
結果として貴重なものとなるわけで、
元より撮影の段階で何が貴重になるかなんて分からないわけです。

宮本武蔵を扱ったバガボンドの漫画の中で、
”自分考えるのは、あけてもくれても、この弱き命を全うさせること”
と稲作農家の男が言う台詞があり、
その言葉が最近特に頭に残っています。
弱き命とは稲のことをさし、そして今回の写真も稲と同様、
”弱き命”の様に思えます。
背景を喪失し、誰に求められるわけでもなく、
ただ写真として在し魅力的であること。
それを強く感じたが故に、
Ones Houseと銘打ってからの最初の展示で取り上げました。
自分の今の指針でもあります。

メディアに載るでもなく、
写真が写真としてその価値を全うし、
誰かの手元に渡る。
または記録として後世に残される。
作者の手元にいつまでもとどまるのであれば、
箪笥の肥やしにしかならないでしょう。
どんな形でもいいから、
人の目に触れることが望ましいし、
その中で一番大切にしてくれる人の手に渡るなら、
それが一番写真としても息の長いことでしょう。

メディア的な背景と言うものは、
あくまで選別により形成されるのだから、
当然数は限られます。
そうではなくより多くの写真を、と考えたら、
それはその土地土地で根をはるべきなのかと。
今回の写真に限らず、
優れた、残って欲しい写真は数多あるはずなので。
自分が目指す写真なり、写真のありようと言うものは、
そう言ったものなのかと思います。

追記

考えてみれば今回展示したこと自体の記述が一切なかったので、
とりあえずそこにも言及すると、
壁面においては一昨年の9月以来のモノクロの作品で、
前回は拡大コピーを単色でやった為、
えらく見難かったからとカラーでコピーをしました。
結果グラデーションはつぶれはせず見やすくはなったかと。
しかしながらシアンなり青系統の色かぶりが強く、
それは褪色するほどに強調され、
中々課題を残すこととなった様な。
特にハイライト部分の白く飛んだ部分と比較すると
(白く飛んだ部分は文字通り全く印刷がされず白のままだった)
あまりに不自然な印象が残り、
改めてモノクロの屋外展示の難しさを感じました。

あとはフライヤーを居酒屋の横のお客さんに見せたりする中で、
写真の稀少さ、良さを自分が感じるのに対し、
辛かった昔の生活を思い出してしまい、
見るのが辛いという意見もありました。
集団就職の写真についてはそう部分もあるのかなと思っていたけれど、
(その為屋外の展示には使わずwebのみの掲載としました)
フライヤーの写真にもそう言った印象があるのは、
自分は認識していなかったし不用意だったかなぁと。
まぁそこを気にしすぎたら何も出せなくなってしまうから、
仕方がないと言えば仕方がないのだけれど。

上でも書きましたが、
時間の経過により稀少になることは認識出来ても、
写真を残していくと言うのは中々難しいことなのかと思います。
どうしても撮影当時は、
技術的な高度さや当時としての稀少さ、
そこにばかり目が言ってしまう訳で。
逆算的に、稀少になるからといって全ての写真を残せる訳ではありません。
ただ、残す為には何らかの行動をしなくてはいけない気がして、
自分の場合は、それが発表となっている訳でして。
自分だけの力では残せはしない。
それ故にその良さを共有してもらうために人に見せるわけで、
人に渡っていくことが、
一つ協力を得ることなのかと思います。

西脇の写真を残そうとするなら、
西脇の人の手に写真が渡るとこが一番良い気がします。
一番大切に、長く所有してくれる気がするのです。

美術館なりメディア、海外のコレクター等が、
所有するのが悪いこととは思いませんが、
そうすることによって、
西脇の人が自分達が暮らす街の昔を写真で見る機会と言うのは、
一体どれ位あるのだろうかと。

都市部の人の目なり心を豊かにしても、
被写体なり舞台となった土地の人をすっとばすのは、
どうなのかなと。

まず写美に所蔵されたって、
足なんか運ばないと思いますし、
そもそも写美の存在自体、
写真に興味がない人は知らないと思います。
海外のギャラリーなら尚のこと、
足なんかまず運びません。
少なくとも自分は運びません。

実際西脇の知り合いと話す中で、
著名な写真家の作品と言うのを即座に思い描ける人等、
写真をやっている人、関心のある人でない限りでもそうそういません。
そんな中、
メディア等が西脇が写っているからと展覧会を、
西脇ですると言うことがあるのでしょうか?
採算のとれる都市部でやることが大体でしょうし、
あるとしても無料招待券を配ること位が精々だろうと。
現状の写真業界で自分が西脇の写真を撮影し発表し、
それが取り上げられたとしても、
西脇の人に見せる機会と言うのは圧倒的に後回しになるのかと思います。
他の土地を撮影したとしても、
それは同様のことなのかと。

現状でも機会がないとは言ません。
まだまだ自分が知らない部分も多いのかと思います。
ただ、
その試行錯誤としては圧倒的にまだ足りないと思いますし、
その環境の整備等も一向に進んでないように思います。

自分達がやっている写真活動とは、
やはりまだまだ一般に馴染みがないものだと思います。